松江城山稲荷神社式年神幸祭
慶安元年(1648)、出雲の国が大凶作の危機に見舞われた。これに心を痛めた松江・松平家初代藩主松平直政公が、当時効験の誉れが高く稲荷神社の社司を兼務していた阿太加夜神社(八束郡東出雲町)の神主松岡兵庫頭に命じ、城内に祀られた城山稲荷神社の御神霊を阿太加夜神社へ船でお運びし、長期にわたり五穀豊穣を祈願させた。松江城山稲荷神社式年神幸祭のはじまりである。祈願は見事に成就し、以後※式年で神幸祭が行われる慣わしとなった。
「五穀よく稔り、諸の蒼生に至るまで、思わざるの災なく、世のやすく、穏やかにありなむことを」
五穀豊穣にあわせ、国民の健康や幸せを祈願する祭りとして、360年もの永きに亘り、現代に至るまで脈々と守り受け継がれ、古くよりその年は平和であり、経済好況であったと伝えられている。
※ 「式年」とは一定の間隔で繰り返されること、「神幸祭」とは神様が他所へお出かけになることを意味する。
櫂伝馬船
最初の神幸祭から160年後の文化5年(1808)の御神幸の折、風雨が激しくなり神輿船が危険な状態になったのを、馬潟村の漁師が救い阿太加夜神社まで無事送り届けた。以来、馬潟村の櫂伝馬船が神輿船の曳き船を務めるようになり、順次矢田、大井、福富、大海崎の櫂伝馬船も参加するようになった。やがて五大地の櫂伝馬船で櫂伝馬踊りが披露されるようになり、色とりどりの装飾とにぎやかな唄も加わり、護岸には埋め尽くされんばかりの観客を集めるようになった。
「ホーランエンヤ」の由来は、櫂伝馬船の船上で唄われる櫂かきの掛け合いの音頭といわれている。古くは、音頭取りの「ホーラ」の掛け声に、櫂かきが「エンヤ」と声を合わせて櫂を漕いだ。この二つの詞が一つとなり「ホーランエンヤ」となった。「豊来栄弥」「宝来遠弥」とも書かれる。