松江城山稲荷神社式年神幸祭
(まつえじょうざんいなりじんじゃしきねんしんこうさい)
慶安元年(1648)、天候不順で凶作が予想され、これに心を痛めた松江・松平家初代藩主松平直政公が、当時効験の誉れが高く稲荷神社の社司を兼務していた阿太加夜神社(松江市東出雲町)の神主松岡兵庫頭に命じ、城内に祀られた城山稲荷神社の御神霊を阿太加夜神社へ船でお運びし、長期にわたり五穀豊穣を祈願させた。これが松江城山稲荷神社式年神幸祭のはじまりである。祈願は見事に成就し、以後式年で神幸祭が行われる慣わしとなった。
「五穀よく稔り、諸(もろもろの)の蒼生(あおひとぐさ)に至るまで、思わざるの災なく、世のやすく、穏やかにありなむことを」
五穀豊穣にあわせ、国民の健康や幸せを祈願する祭りとして、370年もの永きに亘り、現代に至るまで脈々と守り受け継がれ、古くよりその年は平和であり、経済好況であったと伝えられている。
「式年」とは一定の間隔で繰り返されること、「神幸祭」とは神様が他所へお出かけになることを意味する。