松江城山稲荷神社(まつえじょうざんいなりじんじゃ)
松江城山稲荷神社を語るには、松江・松平家初代藩主松平直政公の厚い稲荷信仰に触れなければならない。
徳川家康の孫にあたる直政公は、堀尾三代、京極一代のあと、寛永15年(1638)に松江藩主を封ぜられた。このとき既に城内には八幡社が祀られていたが、直政公はこれのみでは安心が得られず、入府の翌年に藩内の平穏を祈って稲荷神社を創建し、後に築城時からあった若富八幡宮と合祀し、現在に到っています。
境内には、最も多い時には2000体を超える石狐が祀られていたといわれ、本殿には時の名工小林如泥作の木彫りの神狐が収められている。好んでよく参拝した小泉八雲がそのうちの一対を特に誉めていたといわれ、その名筆によって普く世界に紹介されている。また、御神札は遠く大英博物館に所蔵されている。
阿太加夜神社(あだかやじんじゃ)
なぜ阿太加夜神社で城山稲荷神社の御神霊を祈祷するのか。その理由は、時の芦高神社(現阿太加夜神社)神主に秘密が隠されている。
遡ること慶長13年(1608)、堀尾吉晴公による松江城築城時に石垣が何度も崩れ、人夫が怪我をしたり、物の怪に襲われた。そこで、当時効験の誉れの高かった芦高神社の神主松岡兵庫頭に依頼したところ、大祈祷の末見事に城は落成をみた。以来、兵庫頭は松江城の神主職を兼ねることとなり、堀尾、京極のあと、松平直政公入国後もその職は引き続いた。
そして慶安元年(1648)、天候不良を憂いた直政公が五穀豊穣の大祈祷を行うため、約10km離れた芦高神社の松岡兵庫頭のもとに、城内稲荷神社の御神霊を船渡御させたのである。
これは神主の松岡兵庫頭(まつおかひょうごのかみ)が高齢で松江城への登城が困難であったためと考えられる。